いごこちじかんわたしじかんブログ

私は何者?中途半端な立ち位置

あなたに『整う・彩る・緩む』人生を♬
お家の風通しを良くする 『整理収納・空間収納・ルームスタイリング✨』
この3つの視点から、あなたにとっての「いごこち」をお届けするライフリクリエイター中村美枝子です。

私の振り返り12回目。
《いごこちじかんわたしじかん》ができるまで ◆part12◆

小学校5年生の春、父が再々婚しました。現在の母が私の母になった日。
それからのお話の前に、もう少し脱線にお付き合いください^^

みんなとは違うことがもうひとつありました

「みんなとは、また違うな」と思ったこと。「あれ?私って日本人じゃない??」小さいころから、日常に韓国語が飛び交っていたし、食事も韓国料理がいつもありました。法事も韓国式。自然に「私って韓国人なんだ」っていうことに気づく。小学校4年生の頃に聞いた話。父方の祖父が韓国から滋賀県に出稼ぎに渡り、そのまま日本に住むようになりました。滋賀県彦根市で酒蔵を営んでいたようです。父は夏になると琵琶湖で毎日泳いでいたとか。確かに水泳は得意中の得意だ^^

私は永住権をもっている在日韓国人3世です。といっても父も日本で生まれ、日本の教育を受け、私も日本で生まれ日本の教育を受けました。なので日本の生活と韓国の風習が交じり合った環境でした。在日朝鮮人の方たちは、そのあたりはしっかりしていて学校も日本の学校へは通わないし通称名も使わず本名で名乗っています。(このあたりは私個人の見解。在日韓国人でも本名を名乗っている人います。)

※「中村」というのは通称名。旧姓もずっと通称名で生活をしていました。

祖母も普通に韓国語を日常的に使うので、ご近所の方もみんな在日だと知っていました。学校でも数人、在日の子たちがいて「朝鮮!朝鮮!」と私も含めからかわれることも。子どものことですから、時には残酷な言葉も容赦なくぶつけてくる。一緒に住んでいたいとこは「韓国人」ということを隠していたので中学になると苗字も珍しくまったく同じなのに私とは「いとこじゃない!」と最後まで言い切っていました・笑 みんなはいとこだと知っているのに。ある意味すごい信念ですよね。私は幼いころから特に「隠す」ということもなく。かといって「在日韓国人です」と名乗るわけでもなく。別にイヤではなかったんです。日本人じゃないということが。それどころか今もですけど、ずっと韓国人ということに誇りを持っています。

心を悩ました在日という環境

小、中、高と必ずと言っていいほど、卒業式が近づくと学校から手紙をもらう。「卒業証書の名前は本名にしますか?通称名にしますか?」本名にすると名前を読み上げられた時に「えっ! だれっ!?」となりざわつくのは目に見えてます。私自身も呼ばれ慣れていないということで、いつも父は「通称名でお願いします」と返事をしていました。

高校で在日韓国人の先輩がいて、資格証明は本名にしておいた方がいいよって言われたことがありました。いつか「通称名」が使えなくなる日がくるかもしれない。そんな時、頑張って取得した資格が全部ダメになるかもしれない。と・・・それでも私はすべてのことに通称名で通しました。本名を使う時って、パスポートを使う時だけでした。

高校3年生のとき、今も忘れはしない出来事が起こりました。就職のための履歴書を書くんですね。で、就職試験まで訂正などあると職員室まで行って先生に変更を伝えるんです。いつも一緒にいた4人グループのひとりが訂正の為に職員室に行きました。先生はパラパラパラと束になったクラス全員の履歴書をめくります。そのときに友達が私の履歴書の「本籍・大韓民国」という文字を目にしました。教室に帰ってくるなり「みえってさ、朝鮮やってんで!」とその場にいる多数の子たちに言いふらしました。おもしろおかしく。私がいないところで盛り上がる。この話を教えてくれたのはグループのなかのひとり。高校1年生の時に仲良くなった子で、私はすぐに在日だということを言っていました。その子は、わたしが在日ということで話のネタにされ笑われているのを見て悲しそうにしていました。あとグループのもうひとりの子だけは違ってた。ポロポロ涙を流し「どうしよう。私、知らんかったから、みえのこと傷つけてしまったことがあるかもしれん・・・」そんなふうに思って泣いてくれた友達。卒業後、ごはんを食べに行ったり遊びに行ったりと連絡をとっていたのは、このふたりだけです^^

この出来事は、すごく私の心を傷つけました。あんなに毎日、一緒に話して騒いで過ごした友達やクラスの子たちが、私が「在日」だと知ったとたん、手のひら返す。ある意味、子どもって残酷です・笑

就職した先は、幸い船舶でも内外国との取引があったので、イギリスの方や、韓国の方、中国系マレーシアの方などもいて、いろんな言葉が飛び交ってる環境で、逆に私が韓国語を喋れないということに、部長に「自分の母国語はしゃべれないとね^^」といわれたことを思いだします。ヒヤリングと簡単な会話はできましたが、結婚してからは、韓国語に触れることがなく随分と聴くことも話すことも衰えてきました。今は母が韓国語で話すことに日本語で返すという・・・笑

 

いつもずっと心にあることは『在日』だと黙っていることが『嘘』をついているという感覚。見た目は日本人に見えるので、私が言わない限り『日本人』ということになっている。これが嘘をついているようで苦しかった。なので、この先もおつきあいをしたい方や私が大事だと思う人には、昔からすぐに『在日韓国人だから』と伝えます。みんな『そうんなん^^』ってそれがどうした?って反応なので、子どもの頃に『朝鮮人!』といじめられたトラウマがみんなの反応に拍子抜けする瞬間です(笑)

見た目は日本人。でも『韓国人』韓国へ行くと『日本人』この日本人でもない韓国人でもない中途半端な立ち位置が、やがて自信のなさに繋がります。

私が育った地域は、部落などもありとくに『韓国人』『朝鮮人』の差別も酷かった。父が子どもの頃は、石や生卵を投げられた時代。
ちなみにパパさんは関東で生まれ育ちました。私と同い年なのに一切、差別がなかったようです。大学も本名で通っていましたから。年代や地域性で『国籍差別』は随分とちがいますね。

仲の良いママ友に聞いたところ、小野市もそんな差別は昔からなかったと。子どもたちのことが心配で、小野に来てすぐに仲良くしていたふたりにだけ在日だということを話し、学校とかでいじめられたりしないかと聞いたものです。

在日韓国人として長い間、生活をしましたが12年前に「帰化」することになります。

いごこちじかんわたしじかんができるまで ◆part13◆へつづく・・・

part1⇨人生の半分?人生の折り返し地点っていつ?
part2⇨「笑顔」で「頑張る」居場所探しの長い長い時間
part3⇨事務職は天職!空白の2年間
part4⇨タフな私が限界を知った日~突発性難聴との付き合いが始まる
part5⇨これってドラマの中の話じゃなかったの?
part6⇨無我夢中な私。職種を選ぶ余裕なんてなかった結婚後
part7⇨人生の展開はひょんなところからやってくる
part8⇨あたりまえの景色があたりまえじゃないと分かってきた幼少期
part9⇨ドタバタ慌ただしい幼少期がひとまず落ち着きます
part10⇨大人として理解できること心の中の小さいまんまの私を理解させること
part11私の子育ての根っこ『ひもじい』『さびしい』思いはさせない

 

ブログというツールで発信を始めてから6年。文字を通して綴っている原点は私がこれまで生きてきた時間から湧き出るもの。『生き方』というかっこいいものではなく『生き様』という泥臭いもの。少し長くなりそうですが《いごこちじかんわたしじかんができるまで》お付き合いいただけると幸いです。

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