いごこちじかんわたしじかんブログ

人の言葉で傷つき 人の言葉で傷つける

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いごこち」をお届けするライフリクリエイター中村美枝子です。

私の振り返り18回目。
《いごこちじかんわたしじかん》ができるまで ◆part18◆

社会人になり家と会社の往復の毎日。時は「バブル時代」父は毎晩帰ってくるのが遅く。今思えば、あの当時、母は寂しかったんんだと思います。自分が思い描いた家庭とは違っていたのかもしれません。

顔色をうかがう毎日

中学の頃から、そうでしたが躾が厳しく(これを躾というのかどうかは?)本当に自由がなかった。中学、高校と友達と遊びに行ったことは、数えられるくらい。高校の卒業旅行なんてもってのほか。卒業式、みんなで打ち上げに行くことすら反対される。映画一つ観に行くのも母の了解を得ないと出かけられない。学生の頃は「行ってもいい?」とお伺いを立てていたのですが、さすがに社会人になってからは「行く」前提でこちらも申請する。友達と会社帰りにご飯を食べに行こうものなら、瞬く間に機嫌が悪くなる。残業をしても機嫌が悪くなる。定時で帰ってこないとご機嫌さんではないんです。

いつからか、そういうことが面倒になって友達と出かけることが少なくなりました。出かけたとしても夜の10時には帰っていましたね(笑) 日常の生活で何にしても、母の機嫌を損ねると、そのあとのことがしんどくて、母の顔色を見て、口を聞いてくれるのを待ち、こちらから謝るまで無視をされる。そういう状態になるのが嫌で、自分の気持ちに蓋をして、ただ平穏に過ごせることを思っていました。とにかく怒らせないように。

母の怒りに触れると、夜になり『ちょっとこっちきて座って』父と母の前で話が始まる。問い詰められれば問い詰められるほど、私は言葉が出なくなる。時間が過ぎて明け方まで話すことも多々ありました。ことあるごとに、なぜ怒られるのかがわからないこともたくさんあって。怒られている理由が分からないから『ごめんなさい』が出てこない。あやまらないから、母の怒りはもっと増していく。「自分の気持ちを話しなさい」という。話せば話すで、またそこから問い詰められる。この異様な空間は、いまでも理解が出来ていません。話し合いというより、母の『こうでしょ』を押し通すための時間。

帰宅してからは、自分の時間などなく家事だけに費やす。このころから主婦をやっていたように思います。体も丈夫ではなかった母の病院の付き添いで有給休暇をとる。有給とはいえ、月末月始は忙しくて迷惑かかるので休みたくない。普通は避けますよね。残業をしたら怒る。会社の都合でこの日は休めないというと「有給なのにこっちの自由」という。パートにしろシフトが決まっていて、当日欠勤はよっぽどのことがない限りしないのに、休むことに対しての申し訳ない気持ちがない。これはたくさんあるなかのひとつにすぎないですが、母は、こうした「矛盾」で物事を考えることが、たくさんありました。

学生の頃も、社会人になってからも、自由に遊ぶことが出来なかったことが、今は本当に心残り。一番、友達と遊びたい時期、大人になって自由にできる20代を満喫できなかった。戻れるものなら、あの頃に戻って思いっきり楽しみたいと今でも思います。

その頃の感情が残っているのか、「わくわく」がダメになった時の「残念感」がないんです。子どものころから、なにをするにも『どうせだめでしょ。行けたらラッキー』くらいに思っていたので、楽しみにしていたことがなくなったとしても平然といられる。この間、妹とそんな話になって「あー。わかるわかる~」って。同じように育てられた妹もしかり。妹に対しても、とても厳しく、そしていろんなことに干渉する母でした。こうして私たち姉妹は「早く家をでたい」気持ちが日に日に増していきました。

目に見えない感情

母の口癖「普通にすればいい」普通じゃない家庭での普通ってなんなの?人は圧を掛けられ追い詰められると「普通」のことが「普通」にできなくなります。この状況は、私が家を出る結婚式の前夜まで続きました。母に何かを発することが、とても勇気がいる。なかなか行動が出来ない。

そして母の口癖は「あんたのお父さんは・・・」から始まり、父の不満を話し出す。妹にとっても『お父さん』なのに。母は、なにかあるごとに私を庇う父に、とても腹を立てていました。母にしてみれば妹も『あなたの娘でしょ』という気持ち。私には、父が庇ってくれているようには思えなかったですが^^

 

母のたくさんの言葉で傷つき、どうしていいかわからなくなる。母の言葉で困ったことがある。『あんたがいたから、●●●(妹)を抱っこしたくても、できなかった時もある』わかります。母の気持ち。私に気を遣っていたということは。でも、こんなふうに言われるとどうしていいか分からなくなる。買い物に行って、母は妹のものばかり手に取る。そこで母も『ハッ』として『あっ、また●●●(妹)のばっかりやな』と、その手を止める。母も母でたくさん気を遣っていたのだと思います。

結婚する数年前には、なにか怒らせてしまい『育ててもらったことに感謝はしなくても、恩はあるやろ!』って言われた時も、なんて言っていいのか分かりませんでした。妹の誕生日にケーキをもって行ったとき(結婚してすぐの頃)『こんなんいらんから、持って帰り!』とケーキを投げられた。20代後半は、とにかく怒っていることが多かった。モノはよく飛んできました・・・。何をそんなに怒りの感情へとさせているのか、本当ににわかりませんでした。

人は勝手なもので、傷つけられた言葉は覚えていても、人を傷つけた言葉は忘れている。私も母に対して、何度となく傷つけていたのかもしれません。

※母は心の声を頭の中で整理せず、そのまま発する。当時はわからなかったけれど、そういう人なんだなぁ・・・と。

母の大きな病気もわかり、更に家事の負担が増えてくる。土曜日もゆっくり眠れない。仕事の疲れと家事の疲れ。なにひとつ家では癒されることがなく心地いいとも思えず、ストレスが溜まっていく。そして例の結婚破談があり、職場が変わり、更にストレスは溜まる一方。1回目の突発性難聴を発症したのはこの頃です。

負の連鎖。父も母も私も。お互いが歩み寄れず、お互いに不満が溜まり、ドンドン歯車はズレていきます。そして私の人生を大きく変え、両親との確執が更に深くなっていくキッカケ『阪神淡路大震災』。徐々に家族崩壊が始まったころ、結婚をし神戸を離れます。その数年後、あることが分かり両親との壁が分厚くなっていきました。

母が初めて来た日。あんなに待ち遠しくて待っていた日。なのにその気持ちは、いつの日か物事の意味づけを『ほんとのお母さんじゃないから』という気持ちに変わっていきました。よそ様から見れば幸せを絵にかいたような家族に見えていたよう。だけれど中はドロドロ。妹が言う。『韓流ドラマって結構ドロドロな内容が多いけど、うちの方がもっとヘビーやったよね・笑』

結婚後30代からは、更にヘビーな10年間を過ごすことになります。完全に私は病んでしまいました。

いごこちじかんわたしじかんができるまで ◆part19◆へつづく・・・

part1⇨人生の半分?人生の折り返し地点っていつ?
part2⇨「笑顔」で「頑張る」居場所探しの長い長い時間
part3⇨事務職は天職!空白の2年間
part4⇨タフな私が限界を知った日~突発性難聴との付き合いが始まる
part5⇨これってドラマの中の話じゃなかったの?
part6⇨無我夢中な私。職種を選ぶ余裕なんてなかった結婚後
part7⇨人生の展開はひょんなところからやってくる
part8⇨あたりまえの景色があたりまえじゃないと分かってきた幼少期
part9⇨ドタバタ慌ただしい幼少期がひとまず落ち着きます
part10⇨大人として理解できること心の中の小さいまんまの私を理解させること
part11私の子育ての根っこ『ひもじい』『さびしい』思いはさせない
part12
私は何者?中途半端な立ち位置
part13自分の国を捨てる?帰化をしても『私はわたし』国籍ってなに?
part14⇨私の一番のコンプレックス
part15⇨嬉しさの中で言葉の壁に必死の毎日
part16『いってらっしゃい』の大切さ
part17⇨毎日が彼女一色だった中学の頃

 

ブログというツールで発信を始めてから7年。文字を通して綴っている原点は私がこれまで生きてきた時間から湧き出るもの。『生き方』というかっこいいものではなく『生き様』という泥臭いもの。気づけば18回目。あと少しで終わります。《いごこちじかんわたしじかんができるまで》お付き合いいただけると幸いです。

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