いごこちじかんわたしじかんブログ

私の一番のコンプレックス

『整う・彩る・緩む』人生を♬
日常の余白を愉しむMaturityLife(まちゅりてぃらいふ)♡
あなたへ「いごこち」をお届けするライフリクリエイター中村美枝子です。

私の振り返り14回目。
《いごこちじかんわたしじかん》ができるまで ◆part14◆

今日は学歴のお話を。もうそんなに深く考えていないのに、時折、見え隠れします。私の一番のコンプレックスって何だと思いますか?最終学歴が高校卒だということです。一番行きたくなかった『商業科』中学生の頃にさかのぼります。

本が好き。勉強が好き。

小学校高学年の頃から、勉強が好きになりました。小学校5年生の時、母が来て妹が生まれ、やっと家族がいるという環境のなかで落ち着いて机に座り、好きな本を読んだり勉強をする時間が増えていきました。
学校でも、常に一緒にいた2人がとても勉強ができる子たちで自然と勉強が好きになったのだと思います。中学に入ると定期的にテストがあって順位がでて、がんばった分だけ結果として目に見えることが、さらに嬉しくなりました。いつも一緒にいた友達2人も同じ部活に入ったので、毎日一緒に過ごすこともあって勉強も楽しく成績もドンドン上がりました。

友達二人はそれぞれ学校区内のトップの高校と高専を受験し入学。私は2番目の進学校を目指してがんばっていました。中学2年生の時の担任の先生には、このまま勉強がんばれば希望の高校へ行けるからねって言われ、本当に勉強はがんばりました。

ガラガラガラガラ~と崩れた瞬間

3年生になって進路相談が始まり、父に『〇〇高校へ行きたい』と話すと『その高校へ行ってなにをする?』と聞かれ『もっと勉強して大学に行きたい』と言いました。でも父は『大学に行って何をする? どうせ社会に出るなら少しでも早く就職をしたほうがいい。就職のことを考えると商業高校へ行った方がいい』ということを言われました。確かに。当時は就職率がすごく良い高校で就職するなら『●●高校』と言われたほどです。でもだんだん景気も悪くなり私が就職するころは就職率も下がっていました。

父が言うことは絶対的。反論もせず一番行きたくなかった高校を受験することになります。自分の成績からすると随分と偏差値も低いところ。母はドキドキしながら合格発表を見に行きましたが、私は『絶対、受かってるに決まってるやん』そんな気持ちでいっぱいでした。くやしくてくやしくて。一生懸命勉強したのに。
まわりの同級生からも、いろいろと言われました。『△△って、そんなアホやったっけ?』『賢そうに見えたけどな』『えっ!なんでみえちゃん●●高校なん?もっと上にいけるやん』もうね、プライドの高かった私は心ズタズタでした(笑)

今でこそ、人生、学歴や勉強ができるできないではない。って思えます。でもあの時の私は勉強が好きで大学へ行ってもっと学びたかった。社会人になってから、私が行きたかった高校を卒業した友達が『就職にしても、〇〇高校行ってたらよかったのに。普通科でも就職組の子たち、結構いいとこへ就職してたよ。』って。

35年前。大学進学率は40%に満たないころです。妹が大学進学の時に言った父の言葉『今の時代、大学ぐらいでとかんとあかんやろ』11歳離れているので10年ひと時代とすれば、分からなくもない。でも同じキョウダイなのに、なんで私には就職した方がいいっていった? 私、とっても捻くれていました(笑) これは最近知ったことですが、私が大学に行けなかったのは金銭的に余裕がなかったそうです。そのときに話してくれれば、私は何十年も父の訳のわからない言葉に執着することはなかったのにねぇ。 それに、そうならそうと奨学金など、何だかの形で進学する方法もあったはず。余裕がないなら私自身も一生懸命バイトとかもしたはず。今となってはどうしようもないことですが^^

結構しつこい私、それだけ諦められなかった

高校1年生の終わり、進学コースか就職コースを選ぶとき、性懲りもなく、また父に言います。『進学コースに変えて、大学行きたい』と。普通科ではないので、勉強はしていない。数学も数Ⅰだけ。国語も現代文のみ。ほぼパソコン、そろばん、簿記、情報処理、経済。そんな科目でしめていた。『商科大学へ行きたい』と思って父に話したけれど・・・あっさりと却下。
そして高校3年生になり、それでも諦めきれず、専門職の勉強がしたいと話すがこれまた却下。そのうえ父が、そんなに進学したいなら『コンピューター専門学校』ならと提案してきた。

私にしたら『はっ??』心底行きたくなかった商業高校で、週の5日はOAの授業。寝ても覚めてもパソコンとにらめっこし、ベーシックのプラミング言語に嫌気がさしていた3年間。なのにもっとコンピューターの勉強をしろと言ってくる父。

大学への熱い思い

『もし』とか『だったら』とかは嫌いだけど、ずっとずっと『もし、あのとき希望の高校へ行って大学へ行っていたら私の人生かわってたかもしれない』そう思っていました。高校も大学も合格しているかなんてわからないのに。ははは。

今でも、たまに愚痴をこぼすと『もし〇〇高校へいって大学に行っていたら、確実に“今”のみえちゃんはいないよね^^』『小さいときから、いろんな経験をして悔しい思いをして、自分が望んだ道に進めなくて。そのハングリー精神はその賜物。』ってパパさんは必ず言います。わかってますよ。わかってますよ。今までの道のりがあるからこそ、今の私がいる。今までの人生すべて受け入れて納得しているからこそ、こうして笑っていられる。幸せだと思える。そして『今の私』だからこそ、私は自分が好きです。

でもね・・・どこか心の片隅で『やっぱり大学に行きたかったなぁ・・・』って思っている私がいるのです。

「知らない」では終わらせたくない

父は教育に関しては情報を得ることが出来なかったのでしょう。母も韓国から来て間もないので、日本の教育事情はわからない。「知らない」ということほど、いろんな意味で物事を左右する。このことは私の子育てで、反面教師になっています。

子どものことに関して、自分がわからないことは徹底的に調べる。子どもに情報を与える。良い例も悪い例もすべて。親がそういう姿勢でいると、子どもたちも自分の将来について興味を持ったことは、とことん調べるようになってきました。調べて情報を得て考えて。最終決断するのは子ども。子育てはサポートでもあると思っています。親の意見を押し付けるのではなく、子どもが自分のやりたいこと好きなことで自分らしく人生を歩んでいけるようにそっと見守りながらサポートしていく。子どもの考え方に「うん?」って思っても、どうしてそう思うのか寄り添ってみる。そこからドンドン子どもの将来は開いてくると思います。子どもの可能性は無限大。それを開けるのも閉じてしまうのも親次第。 でも、ひとつだけ子どもたちに条件を出しています。高校卒業後、就職しようが進学しようが自分がやりたいことがあれば、どこの大学でも専門学校でもOK。でも高校は学校は問わないので『普通科』へ行くこと。パパさんもここだけは譲らない・笑 高校は「普通科」でという理由は私なりにあります。このこだわりはパパさんとも意見が一致なので、子どもたちにもしっかりと話しています。これも掘り下げれば、私が普通科へ行きたかったという願望がなきにしもあらず・笑

《ちょっと脱線》
行きたくない高校へ入学し、毎日が憂鬱で。同じ中学の友達もいなくて。「ぷっつーーーーーん」と自分の中で何かが切れた感じでした。勉強の意欲もなくなり、部活も入らず。親が厳しくて遊びに行くこともままならず。家と学校の往復。1年生の時、これ以上成績が悪くなると留年です。って言われ親呼び出し。すべてに対して「やる気」がなくなりました。

小学校の時、陸上をしていて中学もそのまま続けようと思っていましたが、なんと陸上部がなくて吹奏楽部に入りました。音楽も好きだったので楽しく部活動はやっていましたが、●●高校の吹奏楽部には、どうしても入る気がしなかった。

《番外編》
のちのち、学歴っていつまでもくっついてくるなぁ。って思うことが。

◆専業主婦から、まずはパートで社会復帰をしようと思ったとき。あの頃は求人にすごいことが記載されていました。『最終学歴。短大、若しくは大学卒』えっえーーーー。パートでもそこですか? それに加え年齢制限も35歳までっていうのが多かった。今では何でもありですけどね。求人広告の条件って。

◆主人が大学卒なので、主人に関係する方たちからは『どこの大学卒業ですか?』って聞かれることも多かった。高卒やったらあかんのかいっ。←心の声・・・

どんなことも知れば知るほど、学べば学ぶほど「なにも知らない」ということに気づきますね^^ 学ぶということは死ぬまで続く。知らないより知っていることで自分の歩く道も随分と変わります。どんなことも、物事には本質があります。そこを見失うと堂々巡りが始まる。やり方にこだわるのではなく、目的を意識すると本質は見えてきます^^ 難しく考える必要はなく、自分がやりたいことの知識を得ること。そして自分で考えること。「なぜ?」「なんのために?」って言うことだけを、何度も何度も自分に問いかけるだけ^^
そうすることで『本質』は必ず見えてきます。これを書きながら、改めて私も「なぜ?」「なんのために?」に反応している自分がいます。やり方ではない^^

今回も長い長い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。ひとつの話は一気に心のままに書き上げたい。お付き合いいただけて嬉しいです。

長い脱線話は終わり、次回からは『母が日本に来た日』新しい家族のスタートです。ここから長い長い両親との確執が始まります。

いごこちじかんわたしじかんができるまで ◆part15◆へつづく・・・

part1⇨人生の半分?人生の折り返し地点っていつ?
part2⇨「笑顔」で「頑張る」居場所探しの長い長い時間
part3⇨事務職は天職!空白の2年間
part4⇨タフな私が限界を知った日~突発性難聴との付き合いが始まる
part5⇨これってドラマの中の話じゃなかったの?
part6⇨無我夢中な私。職種を選ぶ余裕なんてなかった結婚後
part7⇨人生の展開はひょんなところからやってくる
part8⇨あたりまえの景色があたりまえじゃないと分かってきた幼少期
part9⇨ドタバタ慌ただしい幼少期がひとまず落ち着きます
part10⇨大人として理解できること心の中の小さいまんまの私を理解させること
part11私の子育ての根っこ『ひもじい』『さびしい』思いはさせない
part12
私は何者?中途半端な立ち位置
part13自分の国を捨てる?帰化をしても『私はわたし』国籍ってなに?

ブログというツールで発信を始めてから6年。文字を通して綴っている原点は私がこれまで生きてきた時間から湧き出るもの。『生き方』というかっこいいものではなく『生き様』という泥臭いもの。少し長くなりそうですが《いごこちじかんわたしじかんができるまで》お付き合いいただけると幸いです。

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