いごこちじかんわたしじかんブログ

結婚後、親と離れても心はずっと縛られる

ゆる~くココチよく 私の在り方、私の生き方
『整う・彩る・緩む』人生を♬日常の余白を愉しむ いごこちじかんわたしじかん♡
ライフリクリエイター中村美枝子です。

随分と間が空きました。本当は3月中に終了する予定でしたが、コロナさんの影響で世の中が自粛の中、私事を投稿するのを控えていました。自粛も解除されたので再開したいと思います。part22で終わる予定です。

私の振り返り19回目。
《いごこちじかんわたしじかん》ができるまで ◆part19◆

結婚後、私はどんどん壊れていきました。そのなかでも、ただひとつ。やっと『私の居場所』ができたことが何よりも嬉しかった。誰の顔色をうかがうこともなく、我慢することなく、心地よい空間で過ごせ心安らぐ毎日が私にとって一番の幸せだったからです。今でも、その居場所を作ってくれたパパさんには感謝でしかない。

泣きながら自分の感情をぶつける毎日

結婚してからも、実家を優先しないことで母からは、ことあるごとに『キツイ言葉』が容赦なくあびせられる。実家へ行くたびに帰ってきては泣きながら、パパさんに押し殺していた感情を話すたびに、パパさんも次第によからぬ方向へと。私の両親への不信感。『みえちゃんをいじめてる!』という思い。パパさんが直接何かをされているのではないのに、私の両親とパパさんはドンドン距離ができていきました。今思えば、毎日、遅くまで仕事でヘトヘトになって帰ってきたひとに、なんてことをしていたんだろう・・・と申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

あまりにも、私の精神状態が不安定になってきたので、パパさんは『みえちゃん、行きたくなかったら行かなくていいんだよ』って。⇦パパさん神奈川出身なので、ブログ用トークではなくて本当にこんな話し方をします^^

でも、私は『行かない=怒られる』という恐怖心でしかなくて、行きたくなくても行くということを続けていました。実家へ行くたびに、母は自分の不満を容赦なしにぶつけてくる。ここで、あの例の妹に誕生日ケーキを持って行ったときに『持って帰り!』と投げられた話です。

※こんなふうに母のことを話すと、このストーリーを最初から読んでくださっている方は誤解をしていることも多いと思います。母も母なりにいろんな感情とぶつかって、我慢もし心を痛めていたと思います。ただ母ができなかったことは客観的に自分を見ることができなかった。

とにかく、結婚をしても離れて暮らしていても、母は自分の思うことが一番。自分のやりたいことが一番。それが思うようにいかないとヒステリックになる。こうして1年という月日が流れ2年目あるキッカケから、私は実家へ行かなくなりました。

初めての赤ちゃんお空へ

結婚したのが1998年11月。1999年10月に妊娠。嬉しくて幸せな時間も束の間。妊娠9週目で赤ちゃんの心拍が確認できず育っていないとがわかりました。『稽留流産』といって、妊婦は自覚症状もなく、赤ちゃんが元気に育っていると思い込んでいて、いきなり『赤ちゃんの心音が止まっていて育っていません』と伝えられるので、そのショックはとてつもなく大きい。私も信じられない思いしかなく、セカンドオピニオンで神戸の産婦人科へ行くことに。間違いであってほしいという願いもむなしく、同じことを告げられました。待合室の椅子に座り靴の紐を結びながら涙が止まりませんでした。その夜、パパさんが帰ってきて『どうだった?』と笑顔で聞いてくる。パパさんも絶対に間違いだから違う病院で診てもらえば大丈夫と思っての笑顔。『やっぱりダメやったよ』って伝えると、玄関に突っ立ったまま大きな大きな涙をポロポロポロポロと流して大泣きしていました。そんなパパさんを抱きしめるしかなくて『大丈夫やから』といいながら、二人で泣きました。

なにがいけなかったんだろう? 体に負担をかけすぎた? 考えれば考えるほど自分を責めてしまう。そんな時に友達から電話がかかってきて『稽留流産は、みえが悪いんじゃない、誰も悪くない。はじめから育たない赤ちゃんの卵。だから自分を責めたらあかんで』なんだか救われた。

次の日、実家の近くの病院で手術をすることになり母が付き添ってくれました。入院する日、待合室の椅子が大量の血で真っ赤に染まりました。本来なら稽留流産がわかった時点ですぐに処置をするのが、私はセカンドオピニオンで更に1週間が経過していました。子宮はとても正直で、赤ちゃんが育っていないと察知すると要らないものは流れようとする。おなかの痛みも激痛に変わっていき、看護師さんに『赤ちゃんに逢える痛みと逢えない痛みは、全然ちがいますよね』って言ったのを覚えています。おなかも心も痛くて痛くてベッドに横になりながら見えたのは、他人事のような顔で椅子に座り窓の外を見ている母でした。なんだか寂しかった。その夜、パパさんが仕事が終わって病院に来てくれて、ずっとおなかをさすってくれました。

手術の日の朝も、診察台で大量の出血。私、死んじゃうんじゃないかと一瞬怖くなった。待合室の椅子も診察台の椅子も、こんなに汚してしまって申し訳ない気持ちと、おなかの痛さと赤ちゃんがもういない悲しさと。なにがなんだかわからない状態。手術が終わり、母は実家で1週間くらいゆっくりしていったらいい。と言ってくれましたが、私は小野へ帰りました。

亡くなった母が恋しくなる

本当なら2000年6月9日が予定日で、そのときにおなかに赤ちゃんが居なかったら、きっとつらいだろうな・・・と思っていたら2月頃に妊娠が分かりました。でも怖くて病院に行けなかったんです。もし、また同じようなことになったらどうしよう?2回目の生理がこなかったのを確認してから病院へ。先生にすっごく怒られました。
(本来の予定日には、娘がおなかに宿ってくれ、不思議なんですけど、4年後に息子が生まれたのが6月。いろいろと繋がってるなぁ。)

妊娠をきっかけに、私は実家へ行かなくなりました。実家へ行かないことで、なにもストレスのない毎日。私の家のことをよく知っている友達も『みえ、もう実家に行かなくていいで。いままでいっぱい頑張ってきたやん。もう自分の幸せだけ考えたらいい』って言われるも、やっぱり心のどこかで『親に対してこんなことしたらあかん』って言う気持ちがあって、毎日、パパさんとふたりでの妊婦生活も楽しい。だけどどこかモヤモヤする・・・。でも一度、実家へ足を向けなくなると、私の気持ちはますます遠ざかっていきました。妹とはずっと連絡を取っていたので、娘が生まれたときも父と二人で病院まで来てくれました。母はいない。電話で『今は行く気になれない』と。もう20年前の話です。こうしてブログに文字を起こしながら、いろいろなことを思い出し、鮮明に覚えていること、ぼやっとしていること。胸が痛くなること。涙が流れてくること。あの頃は『悲しい、寂しい』って言う気持ちが大きかったように思います。

こういう親子関係のなか、私は娘の時も息子の時も、出産後実家へ帰らず、家に戻り手探りで赤ちゃんのお世話と家事を一生懸命やりました。実家に帰っても心休まる気がしなかったからです。息子を出産する時も、娘と一緒に入院ができるところを探して助産院で出産することにしました。

娘が生まれてから、更に私は亡くなった母が恋しくなりました。年齢を重ねるたびに『母に逢いたい』というきもちが大きく大きくなって心が押しつぶされそうになる。今でも『母に逢いたいスイッチ』が入ると涙が止まらない。

11歳の時に新しい母がきて、私はその『母』という人物にずっと『お母さん』を求めていました。そして最後の願い。娘の1ヶ月検診の帰りに実家へ行こうと決めました。孫を見たら母の心も緩んでくれるのでは?と微かな期待とともに。

いごこちじかんわたしじかんができるまで ◆part20◆へつづく・・・

part1⇨人生の半分?人生の折り返し地点っていつ?
part2⇨「笑顔」で「頑張る」居場所探しの長い長い時間
part3⇨事務職は天職!空白の2年間
part4⇨タフな私が限界を知った日~突発性難聴との付き合いが始まる
part5⇨これってドラマの中の話じゃなかったの?
part6⇨無我夢中な私。職種を選ぶ余裕なんてなかった結婚後
part7⇨人生の展開はひょんなところからやってくる
part8⇨あたりまえの景色があたりまえじゃないと分かってきた幼少期
part9⇨ドタバタ慌ただしい幼少期がひとまず落ち着きます
part10⇨大人として理解できること心の中の小さいまんまの私を理解させること
part11私の子育ての根っこ『ひもじい』『さびしい』思いはさせない
part12
私は何者?中途半端な立ち位置
part13自分の国を捨てる?帰化をしても『私はわたし』国籍ってなに?
part14⇨私の一番のコンプレックス
part15⇨嬉しさの中で言葉の壁に必死の毎日
part16『いってらっしゃい』の大切さ
part17⇨毎日が彼女一色だった中学の頃
part18人の言葉で傷つき 人の言葉で傷つける

番外編⇨子宮ポリープちゃん、どこにいった??

 

ブログというツールで発信を始めてから7年。文字を通して綴っている原点は私がこれまで生きてきた時間から湧き出るもの。『生き方』というかっこいいものではなく『生き様』という泥臭いもの。あと少しで終わります。《いごこちじかんわたしじかんができるまで》お付き合いいただけると幸いです。

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