いごこちじかんわたしじかんブログ

いま、この瞬間しか確実な時間はない ~阪神淡路大震災から29年~

人生はフリースタイル!毎日の暮らしに心地よいヒントをお届けするライフリクリエイター中村美枝子です。

阪神淡路大震災から29年

なにげない日常が、幸せだと気付かされる日。2024年のスタートは石川県の地震と、羽田空港での事故という悲しいニュースから始まりました。

自然災害から起こるもの、人的に起こるもの。どちらも100%避けることができないのも事実ですよね。何が起こるかわからないからこそ、常に「心の備え」が必要だと思います。
毎日の暮らしの中で、忘れてしまいそうになる「私たちは生かされている」ということ。

そのことが常に、心に留めておくことができれば、生かされている「命」「時間」をもっと大切に使えるのかもしれません。そして、もっと感謝の気持ちを持って生きていけるのかもしれません。

忘れもしないあの光景が、29年経っても目に焼き付いています。今でも自然に涙が溢れてくる。焼け野原になった街、生まれ育った街の景色が一変し、命尽きていく人を目の当たりにし、たくさんのご遺体を目の当たりにし、そこに駆け寄るご家族の声。

あの日の空は今でも覚えています。あの日の神戸の街は今でも覚えている。⁡

父の会社があった長田区は火災で焼け野原になりました。ほとんどの人が倒壊した家屋の下で圧迫し、息途絶えました。瓦礫の下から手や足が出ていて、かすかに動いているのをみても、みんなどうすることもできず。人の無力さを思い知った日。

道の端に毛布にまかれ横たわり亡くなった人たち。倒壊した家から運び出され亡くなった男の子。「おにいちゃん!おにいちゃん!」と泣き叫ぶ女の子。

まだ20歳くらいの男の子。血の気がなく青ざめた顔は、今でも脳裏に残っています。

祖母は全壊の家屋の下敷きになり3日間埋まっていました。真っ暗ななか、瓦礫の上から「おばぁちゃん!おばあちゃん!」と叫んでも、返答があるわけもなく。人の手では瓦礫もどうしようもすることができず、街中は車が渋滞で救助すら、ままならない。

祖母の住所を紙に何枚も書いて、道路にいる救急隊員や警察のひとに、とにかく配りました。「ここに10名以上埋まっています。助けてください!」それしかできなかった。

6434人が亡くなり、その9割が圧迫死です。即死か当日中になくなっています。受験の時期だったので、受験勉強中、机に向かう姿勢で鉛筆をもったまま発見された子どもたちも沢山いたそうです。

道路が陥没し、地下鉄がなくなり、途中から毎日歩いて通った会社。壁に穴が空き建物が傾き、水がなくトイレが使えない社屋で働いた日々。

街は復興しても、家族の関係も、人間関係も大きく人生が変わりました。震災がキッカケで、様々なことが連鎖していく。それでも一生懸命、前を向いてきましたが、まだ消化しきれていない自分がいます。

街は復興しても、家族を亡くされた方たちの心が癒えることはない。

石川県の震災は、時期もそうですが、現状が阪神淡路大震災と重なることが多く、胸が締め付けられる思いでした。

震災は、これから復興までの期間が、本当に言葉では伝えきれないほど大変です。震災後、強く生きていこうと頑張って前を向いて生きていく人もいれば、希望も見いだせなく心を病み、鬱になったり死を選ぶ人もいます。日が経つにつれ、心の痛みが大きくなっていきます。

国ができること、自治体ができること、個人でできること。支援の方法は様々です。ライフラインが復活し、復興が始まってからが、大変な日々が待っている。なにより、経済を動かすこと。特に個人経営、小さな会社の支援が必要になってくると思います。大企業や全国展開している会社は財力があるので復活力がある。神戸の街も、戻ってきたお店や小さな会社は多くないです。会社や、お店を復活させることは、そう簡単な事じゃありません。

街を応援して経済を動かしていくことが、大事だと思っています。遠く離れた場所で、継続的に私ができることをやっていきたいと思います。

『いま、この瞬間しか確実な時間はない』ということ。だから、精一杯「今」を生きるんです。自分の命は生かされているということを忘れずに。自分の命の終わりがくるまで。

震災後、震災のことは口にすることはありませんでした。6年まえから、話したり文字にすることができるようになり、毎年、何だかの形で投稿しています。

1995年1月17日 5時46分
死者 6434人

合掌

2024年元旦からの悲しい出来事。石川県での地震で、お亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみ申し上げますとともに、被災された皆さまに心からお見舞い申し上げます。被災された方たちの笑顔が一日でも早く戻ることを願っています。

中村美枝子

 

関連記事

最近の記事

PAGE TOP