いごこちじかんわたしじかんブログ

阪神淡路大震災31年・・・これまでとこれからと

なぜこんなに辛かったのか・・・震災がもたらした確執

2026年、今年で阪神淡路大震災から31年が経ちました。震災後、震災のことは口にすることはありませんでした。18年が経った頃から、話したり文字にすることができるようになり、毎年、何らかのかたちで投稿しています。

31年という数字を見ると、あまりにもの長い年月。あの日以来、震災がもたらした親との確執が、いつも私の心に居座り、私自身を攻撃し続けてきました。もともとあった関係の歪みは震災という大きな衝撃によって、更に歯車がずれていきました。

普段は胸にしまっていることですが、今年の1月17日は、例年とは少し違う気持ちで迎えました。あと3年で60歳という節目を迎える今 、いつ幕を閉じるかわからない残りの時間を、誰のためでもない「自分の人生」として生きていきたい。そう覚悟を決めたからだと思います。

阪神淡路大震災から31年~街の復興・心の復興~

なにげない日常が、幸せだと気付かされる日。今でもあの日の光景は忘れることが出来ません。震災がキッカケで人生が変わりました。人生観も180度、変わりました。幸い身内で命を失う人はいませんでしたが、私にとってはたくさんのものがなくなったように思います。

31年目にして、少し不思議な感覚を抱いています。 これまでずっと、震災が人生を狂わせたのだと思ってきました。けれど今、震災がなくても、私は同じ葛藤を抱え、同じ「今」に辿り着いていたような気がしています。「震災のせい」にすることで心のバランスを保っていただけかもしれません。

どんな過酷な出来事が起きようとも、大切なのはその後の日々をどう生きるか。 抽象的な言い方かもしれませんが、出来事に支配されるのではなく、自分の足で時間を歩み直したい。長年抱えてきた「震災の影」が、少しずつ違う形に見え始めています。

毎年、テレビの映像が流れると、自然に涙が流れます。年が経つごとに、ご家族を亡くされた方たちの悲しみはの深さが胸を刺します。人の死を目の当たりにすることがどんなに辛いことか。何も出来ない自分がどんなに小さく思えたか。あの日の感情がよみがえります。

平凡な毎日が、どんなに幸せなことかを改めて知らされる日。生かされている事に感謝があふれだす日。毎日の暮らしの中で、忘れてしまいそうになる「私たちは生かされている」ということを・・・。

それを常に心に留めておくことができれば、生かされている「命」「時間」をもっと大切に使えるのかもしれません。毎年、同じことを再確認するのに、日々の気忙しさにその気持ちが薄れていきます。小さな幸せは目の前にたくさんあるのに、小さな慣れが「感謝」という気持ちを遠ざけているのかもしれません。

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忘れもしないあの光景が、今でも目に焼き付いています。自然に涙が溢れてくる。焼け野原になった街、生まれ育った街の景色が一変し、命尽きていく人を目の当たりにし、たくさんのご遺体を目の当たりにし、そこに駆け寄るご家族の声。

あの日の空は今でも覚えています。あの日の神戸の街は今でも覚えている。⁡

父の会社があった長田区は火災で焼け野原になりました。ほとんどの人が倒壊した家屋の下で圧迫し、息途絶えました。瓦礫の下から手や足が出ていて、かすかに動いているのをみても、みんなどうすることもできず。人の無力さを思い知った日。

道の端に毛布にまかれ横たわり亡くなった人たち。倒壊した家から運び出され亡くなった男の子。「おにいちゃん!おにいちゃん!」と泣き叫ぶ女の子。

まだ20歳くらいの男の子。血の気がなく青ざめた顔は、今でも脳裏に残っています。

祖母は全壊の家屋の下敷きになり3日間埋まっていました。真っ暗ななか、瓦礫の上から「おばぁちゃん!おばあちゃん!」と叫んでも、返答があるわけもなく。人の手では瓦礫もどうしようもすることができず、街中は車が渋滞で救助すら、ままならない。

祖母の住所を紙に何枚も書いて、道路にいる救急隊員や警察のひとに、とにかく配りました。「ここに10名以上埋まっています。助けてください!」それしかできなかった。

6434人が亡くなり、その9割が圧迫死です。即死か当日中になくなっています。受験の時期だったので、受験勉強中、机に向かう姿勢で鉛筆をもったまま発見された子どもたちも沢山いたそうです。

道路が陥没し、地下鉄がなくなり、途中から毎日歩いて通った会社。壁に穴が空き建物が傾き、水がなくトイレが使えない社屋で働いた日々。

街は復興しても、家族の関係も、人間関係も大きく人生が変わりました。震災がキッカケで、様々なことが連鎖していく。それでも一生懸命、前を向いてきましたが、まだ消化しきれていない自分がいます。

街は復興しても、家族を亡くされた方たちの心が癒えることはない。

震災は、復興までの期間が、本当に言葉では伝えきれないほど大変です。震災後、強く生きていこうと頑張って前を向いて生きていく人もいれば、希望も見いだせなく心を病み、鬱になったり死を選ぶ人もいます。日が経つにつれ、心の痛みが大きくなっていきます。

国ができること、自治体ができること、個人でできること。支援の方法は様々です。ライフラインが復活し、復興が始まってからが、大変な日々が待っている。なにより、経済を動かすこと。特に個人経営、小さな会社の支援が必要になってくると思います。大企業や全国展開している会社は財力があるので復活力がある。神戸の街も、戻ってきたお店や小さな会社は多くないです。会社や、お店を復活させることは、そう簡単な事じゃありません。

街を応援して経済を動かしていくことが、大事だと思っています。継続的に私ができることをやっていきたいと思います。

『いま、この瞬間しか確実な時間はない』ということ。だから、精一杯「今」を生きるんです。自分の命は生かされているということを忘れずに。自分の命の終わりがくるまで。

1995年1月17日 5時46分
死者 6434人

合掌

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いごこちじかんわたしじかん
中村美枝子

 

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