いごこちじかんわたしじかんブログ

価値観、人生観が大きく変わった「阪神淡路大震災」で失ったもの

ゆる~くココチよく 私の在り方、私の生き方
『整う・彩る・緩む』人生を♬日常の余白を愉しむ いごこちじかんわたしじかん♡ライフリクリエイター中村美枝子です。

1995年1月17日5時46分阪神淡路大震災。今から25年前。当時、東洋最大の港があった近代都市での災害。神戸の街は跡形もなくなくなりました。死者6434人。当時、戦後最大規模の地震災害。

私の振り返り21回目。
《いごこちじかんわたしじかん》ができるまで ◆part21◆
今日は少し長文です。事細かく話すと、とんでもなく長くなるので省略している部分が多いですが。

生まれ育った街がなくなる寂しさ非日常な日々

年が明けると、もう26年になるんですね。昨日の事のように、あの日の朝のことは覚えています。いまだに震災のことを文字にしたり目にしたり考えたりすると胸が痛く涙が流れます。倒壊した建物、陥没した道路、至る所で火事が起こり瓦礫の中を歩きながら見た景色を忘れることはありません。そして何人もの亡くなった方たちを目の当たりにし、担架で運ばれてゆく若い男性を「おにぃちゃんおにぃちゃん」と泣き叫びながら寄りそっていた妹さん。今でも蒼白した男性の顔が頭に焼き付いたままです。

神戸の中でも、兵庫区、長田区、須磨区の被害は甚大で。私たち家族は2ヶ月前まで兵庫区に住んでいました。震災の時は西区に引っ越したばかりで、父の会社は焼け野原になった長田区にありました。家は34階建ての17階に住んでいて地震の時の揺れは、それはすごいものでした。電気がストップしエレベーターも機械式駐車場も止まり下へ降りるのも車を出すのも大変で、祖母や親戚は兵庫、長田に住んでいたので、みんな連絡がつかず慌てて兵庫へ向かうも大渋滞でどうにもならず日頃30分もかからない祖母の家まで6時間もかかりました。

あのとき目に映った異様なほどの色をした兵庫、長田の街は今でも脳裏に焼き付いています。途中、車が通れなくなり歩いて祖母の家をめざしました。辺り一面、建物は全壊し電信柱や電線、瓦礫をよけながら暗闇のなかを一生懸命歩きました。そこには、私が育った街は跡形もありませんでした。

そして祖母のアパートも崩れ落ち祖母は建物の下敷きに。『おばぁちゃん!おばぁちゃん!』と叫んでも、もちろん返事はなく。約3日間、倒壊した家屋の下に埋まっていましたが、ちょうどタンスの扉が開き空洞になったところで、なんとか命は持ちこたえていました。

なかなか救助してもらえず、祖母の住所を書いた紙を「倒壊したアパートに20人近く埋まってます!」といいながら、移動中、目についた警察や消防の方たちに一枚一枚手渡しました。救助の時、私たちが居なかったので祖母は記憶が飛んだまま行く当てもなく歩いていたようで、近所の方が避難所になっていた『小学校でおばぁちゃん見たよ!』と聞き、父が行ったときには居なくて保護されていた病院でやっと見つかりました。

当時、住んでいた西区の病院へ移転し退院後は仮設が決まるまで一緒に住んでいました。親戚を迎えに行くのに何時間も歩いていった道。道路の陥没で、地下鉄が板宿止まりで何時間もかけて会社へ通った道。勤めていた会社も半壊で壁に穴が開いたまま、ビルが傾いたまま業務をし水道も止まったままでした。毎日、ポリタンクを持ってトイレ用の水をもらいに行き、瓦礫と土埃の中の出勤は、いま思い出しても本当に大変でした。

親族や友達、知人で亡くなった人はいなくて本当にそれだけが幸いでした。ただ取引先の社員の方がなくなったのと、父が一緒に仕事をしていた方の奥さんが何年後かに自死しました。

お金は人を幸せにも不幸にもする

災害はその時はもちろん大変な日々を過ごします。でも本当の意味で大変なのは世の中がなんとなく震災のことを忘れかけた頃。私たち家族は家は何ともなかったので国からの援助金は一切もらうこともなく。父の会社があった長田区は全滅。最終的に生き残った経営者は1割もいなかったと思います。父も仕事がなくなり、なんとか頑張っていましたが数年後に会社も家もすべてなくし残ったのは借金だけでした。震災がきっかけで私たち家族の人生が大きく変わり、すべてが変わってしまった日から私と両親との確執は更に深くなりました。

絆や助け合い、人の優しさがあった半面、その裏で犯罪や憎しみ、人間の汚さも浮き彫りになった。親族間での揉め事、影口、罵り合い。震災後、数か月間父の姉家族と祖母と一緒に暮らしていました。父の兄姉間での出来事が本当に醜かった。身内でも他人でも、こういうときに人間の本来持っているものが出るんだなと、つくづく思いました。

震災当時もいろいろありましが、数年後、父がすべてを失ったとき考えもしなかったことが発覚し大きなお金の問題に私は巻き込まれることになりました。今でも「なんでそんなことをしたのか?」ということだけが自分の中で理解できずにいます。このことがキッカケで父への不信感が募り、真面目に生きてきた私がなんで巻き込まれないといけない?一体、私が何をした?そんな思いで胸が張り裂けそうになりました。いまだにそのことに対して、両親は悪いことをしたと思っていない。

とにかく生活が一変し、母は心身ともおかしくなる。父も同じく。お金がないということが人を不安にさせ、どんどん狂わせていくんです。私がサイゼリヤで夜中に工場でパートに出たのも両親への援助のため。3歳の息子が夜中に起きて、私を探して泣いていたと聞くと胸が痛かった。その痛みが両親への怒りへと変わってゆく。我が家もサラリーマン家庭で余裕なんてない。両親は、なぜか私がお金をもっている前提でいる。とにかく『お金』のことで何年も何年もケンカや言い争いが絶えず。人はお金が絡むと本当に醜くなるんですよ。身内ほどそうなのかもしれないですね。震災後「お金」というもののために十数年も親との関りの中でお互い心が荒んでいきました。雑な心は人を幸せにはできない。子どもの頃から父と母はいつもお金のことでケンカも多かったように思います。

あの頃は、ただただ両親が憎くて、早く居なくなってしまったらいいとも思っていました。親子関係が成り立たず、家族みんなが分かり合えず、寄り添わないグラグラの家族は、なにかが起こると同時に悲しいけれど、そこには「怒り」や「憎しみ」しか残らない。人はきれい事だけで生きていけないことがたくさんある。自分がこんなにも残酷で醜い心を持っていることを知った時、世間体や体裁よりも「こんな自分もいるんだ」となぜか冷静な私がいました。

守るものとは?

40歳を過ぎた頃「親に対して自分が出来ることだけをしよう」と決めてから、援助をすべてやめ、今まであたりまえのようにやってきたこと、「親とお金との関り」も含め他のこともやめました。無理をして実家へ行くこともやめました。薄情な娘だと思われようが何と思われてもいいと思いました。まずは自分の家族を守ることの方が大事だと思ったからです。主人にもたくさん実家のことで迷惑をかけ、そして私は子どもたちを守っていかないといけない。親と距離を置くことで、本当に少しずつですが両親も変わってきました。一歩進んでは2歩さがり、2歩進んでは3歩さがり・・・を繰り返しながら。

自分たちが描いていた老後がここにはなく、もがいていた両親も数年前からやっと受け入れることが出来たように思います。長い時間がそうさせたのか・・・震災から20年です。もし震災がなかったら、私たちの親子関係はどうなっていたのかな。と思うときがあります。

震災ですべてが変わり、思ってもいなかったことを受け入れないといけなくなり、私は価値観や人生観が大きく変わりました。小さい頃から様々な環境や出来事の中で育ち、40歳になるまでもがいていた人生。40歳の誕生日の日、人生の折り返しだと思い、残りの人生は絶対に心の底から笑える自分でいたいと思い1歩を踏み出しました。

2019年9月からスタートした「いごこちじかんわたしじかんができるまで」今年の春で書き上げるつもりだったのがコロナで世の中が変わり、なぜか?なかなか進められずにいましたが明日で最後です。最初からお付き合いいただいている方がいらっしゃれば最後までよろしくお願いします。

いごこちじかんわたしじかんができるまで ◆part22◆へつづく・・・

part1⇨人生の半分?人生の折り返し地点っていつ?
part2⇨「笑顔」で「頑張る」居場所探しの長い長い時間
part3⇨事務職は天職!空白の2年間
part4⇨タフな私が限界を知った日~突発性難聴との付き合いが始まる
part5⇨これってドラマの中の話じゃなかったの?
part6⇨無我夢中な私。職種を選ぶ余裕なんてなかった結婚後
part7⇨人生の展開はひょんなところからやってくる
part8⇨あたりまえの景色があたりまえじゃないと分かってきた幼少期
part9⇨ドタバタ慌ただしい幼少期がひとまず落ち着きます
part10⇨大人として理解できること心の中の小さいまんまの私を理解させること
part11私の子育ての根っこ『ひもじい』『さびしい』思いはさせない
part12
私は何者?中途半端な立ち位置
part13自分の国を捨てる?帰化をしても『私はわたし』国籍ってなに?
part14⇨私の一番のコンプレックス
part15⇨嬉しさの中で言葉の壁に必死の毎日
part16『いってらっしゃい』の大切さ
part17⇨毎日が彼女一色だった中学の頃
part18人の言葉で傷つき 人の言葉で傷つける
part19距離を置きたいのに両親への罪悪感はどこからくる?
part20結婚後、親と離れても心はずっと縛られる
part21価値観、人生観が大きく変わった「阪神淡路大震災」で失ったもの
⇦イマココ
part22生きるってとてもシンプルなこと

番外編⇨子宮ポリープちゃん、どこにいった??

ブログというツールで発信を始めてから7年。文字を通して綴っている原点は私がこれまで生きてきた時間から湧き出るもの。『生き方』というかっこいいものではなく『生き様』という泥臭いもの。2020年12月31日最後の投稿です。《いごこちじかんわたしじかんができるまで》最後までお付き合いいただけると幸いです。

◆心のお片づけから一歩が始まる◆
お片付け、お掃除、子育て、パートナーシップ、対人関係など。「なにかがちがう?」
そんな違和感があるまま生活するよりも「心のモヤモヤ」を緩めることで、毎日の暮らしが変わります。いま目の前に在ることをスルーしても、それは解決したわけではありません。目の前に在る自分と向き合うことから始めることで、今まで気づかなかったことが見えてきます。「わたしはわたし」自分の人生は自分で創り上げていくもの。毎日の積み重ねが、あなたの人生そのものになります。

Restartするときがターニングポイント♡あなたのココチイイ暮らしが動き出すとき

兵庫県在住。夫、娘(大3)息子(高2)の4人家族。娘は京都でひとり暮らし中。
幼少期から様々な家庭環境の中で育ち、まぁまぁ波乱万丈の人生をおくる。40歳のとき「私の人生このままでいい?」の自問自答で「私を生きる暮らし」にシフトチェンジから12年。
暮らしオタク、人生オタク。チャレンジ精神旺盛。まずはやってみる!話すこと、文章にすることが大好き。まだまだ人生学びの日々。死ぬまで勉強!
〖好きなモノ・コト・ヒト〗
焙煎珈琲・観葉植物・日本酒・掃除・片付け・インテリア用品・腕時計・蓮の花・お寺・スーツ姿の男性・家族・凛とした女性 profile

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